平成4年度  毎日農業記録賞・最優秀賞    

「自由化の波の中で」             江口正博

 「お父さん、みんなでまた来ようね。」夏休みの最後の日曜 日、動物園からの帰り道に、もうすぐ6歳になる長男が耳元に ささやきました。私は、帰りの時間を気にしながら「うん」と 短く応えました。海水浴か一泊ぐらいの家族旅行をと考えてい たのですが、たび重なる台風や仕事の都合で、とうとう近くの 動物園ですませてしまいました。しかし、子供たちや妻はうれ しさを隠しませんでした。行楽というには、あまりにささやか なものでしが、「これが今の自分の実力かな」と納得しました 。4歳の次男と1歳半の3男は、何度もキリンや象に手を振っ ていました。  
 もっとゆとりある生活を送れると信じていましたが、結婚して経営を任されてからは、年を追うごとに農業を取り巻く情 勢は厳しくなってきてます。85年のプラザ合意以降の円高に よって、内外価格差は拡大し、輸入に拍車がかかり、農産物価 格は低落の一途であります。
 とくに昨年はひどいものでした。 4月の牛肉自由化によるホルスタイン牛肉の暴落。5月、6月 の長雨による小麦の品質低下、廃棄処分。9月の二度にわたる 台風襲来による家屋、農業施設の破損と水稲の大幅減収。損失 額は一千万を超えました。救済金も含めてこんな状況です。
 途 方にくれました。世の中はこんなに厳しいものかと思いました 。あれから一年、経営と生活の建て直しに必死でした。家族全 員で復旧に努め、やっと平常に戻った状態です。でも、あんなにひどい年でもなんとか乗り切れたのですから、何かしら自信 のようなものが芽生えてきました。
 私は、福岡県南部の柳川市 で米麦と肉牛の複合経営を営んでいます。両親は、車で二十分 程の三池干拓に入植して二十数年になります。就農する当時、 年老いた祖父母が二人だけで暮らしていましたので、柳川市の 実家に腰を据えたわけです。現在、三十一歳の妻と三人の子供 達、それに九十一歳の祖父、八十六歳の祖母の七人家族です。  経営は両親と一緒に、自作地1ヘクタール、期間借地3.5 ヘクタールに米・麦・大豆・牧草をつくり、肉牛は黒毛和種と 乳用種の交雑種(F1)の哺育一貫肥育経営を百三十頭行って います。仕事の分担は、両親が耕種部門の管理を、そして私た ち夫婦で肉牛の管理を主に行い、農繁期には一緒になって仕事 の効率を上げるようにしています。  
 
 15年前の就農当時は、米麦だけを6ヘクタールずつ作付け していました。その頃は価格も年々上昇し気象条件もよく、他 産業に比べて見劣りしない収益を上げていました。しかし、徐 々に減反面積の拡大が行われるようになり対策が求められるよ うになってきました。  三池干拓でまず行われたことは、稲ワラ梱包でした。肉牛農 家の大型化による粗飼料不足に対応して行われた、緊急粗飼料対策事業を導入し、べーラーで梱包した稲ワラを肉牛農家へ販売しました。肉牛農家からは大変喜ばれましたが耕地は目に見えぬ速さでやせていきました。麦蒔き前に耕起しても土は砕けず、明らかに有機物不足の様相を呈していました。
 次に行われたのが、期間借地による麦作の拡大でした。補助事業によってグレンタンクの付いたコンバインが導入され、作業能率が飛躍的に上がり、作付面積は倍増しました。我が家も12〜13ヘクタールにビール大麦と小麦をつくり、高収入を上げるようになりました。
 しかし、農作業は農繁期に集中し、農閑期には暇を持てあます生活は、若かった当時の私には不満でした。もっと年間を通じて仕事が確保でき、安定した作目はないものかと模索しました。ちょうどその頃、私が農業を初めて2年目の冬、福岡県中部の甘木市にある江川肥育牛団地が日本農業賞を受賞した記事が目にとまりました。牛のことは全く知識のなかった私には、百頭規模で5千万円の販売額には驚きでした。10頭でも5百万円なら仕事になります。米麦から出る稲ワラ、モミガラ、クズ麦等の副産物が利用でき、牛から出る堆肥はやせかけた土壌を豊かにしてくれます。園芸作物などは海岸端の低湿地帯には不向きだと考え、農業白書などで調べましたが、今後の需要の伸びは十分に期待でき国も稲作転換で行き詰まりつつある農業を再生させる方法は、これしかないと思いました。
 八女の家畜市場からホルスタインの子牛5頭を導入、無我夢中で頑張りました。相場が良かったので多少の失敗は許されましたが、6ヶ月齢の子牛を導入するので、ほ育、育成期の病気が再発したりしました。しかし1頭売れば2頭買い、2頭売れば4頭というように倍々ゲームで牛は増えていきました。牛が増えたことも喜びでしたが、何よりも仲間ができたことが、それ以上に嬉しいことでした。その後の10年間に7人もの同志ができたのですから。

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